1968年の予兆

今年がM.S. King牧師(4月4日)とRobert Kennedy(6月5日)が暗殺されて50年になることを、前にこのブログで記した(キング牧師没年ジュビリー(50年))。
NPR(6月5日)は、そのRobert Kennedyがボストンの上流社会で育って、黒人の生活がどんなものか殆ど触れたことのない彼が、いかに真摯に黒人に近付き、黒人の生活、黒人の世界を知ろうとしたか、2,3の挿話とともに示している。

先ず第1は、その時、合衆国司法長官の彼は5月のある1日、ニューヨーク市内の父親の持つアパートに、選りすぐりの黒人芸能人らを招いている [1]。
Harry Balafonteの他、いずれも著名な劇作家、作家、歌手などである。
いずれも当時、南部のミシシッピ州などで盛んだった、キング牧師がリードしている公民権運動に参加していた。
そのことからRobert Kennedy(皆から愛称“Bobby”で呼ばれていた)が、彼らから聞きたかったことの1つは彼らの公民権運動に対する関心、関与の仕方などであった。

ところが、それら著名な黒人芸能人らが異口同音にBobbyに向って発したのは、強い調子の叱責と詰問だった。
「あんたこそ、黒人の運動をどう思ってるんだ。あんたと、あんたの兄貴とが、揃ってやるべきことをやってるのかい!」、
「政府のやり方は何だ…まるで前進がないじゃ!」だった。
司法長官としての仕事で優しく肩を叩いて貰えるかと思いきや、全員がBobbyのお尻を足で蹴り上げてきた感じであった。
Bobbyは早々に、その日の会合を切り上げた。

ボストンの上流社会で育って、黒人の生活がどんなものかまるで知らない彼だったが、しかし、その後冷静になって考えてみるBobbyに、次第に黒人等の言ったこと、彼らの視点と言うものが見えてきた。
黒人らの生活が、日々、社会との闘争であるという視点である。

現にKennedy兄弟は、彼らが信奉し心から後援しているキング牧師のことだって、「反対ばかりして、与論を分裂させる人間」と考えていた。
兄弟ともが強く欲していた南部の黒人票、それを握っているかのような位置にいるから敵に回せない…が好きになれない男、そんなキング牧師であったが、距離を置きながらも、票のために牧師とも脈絡を保っていないと…」。
だから兄弟は、キング牧師のお説教以外に、集った黒人らから直接、彼らの真の心を聞きたいと思っていた。

NPRは、司法長官の、そして後にはニューヨーク州選出の上院議員のRobert Kennedyが、こうして黒人の生の声を拾いにあちこち出かけていたことを、その実績を、Robertの息子、Jr.の声を通して収録している。

息子のJr.が良く覚えていたのは、初めの1つがニューヨークのハーレムであった。
そこのアパートに住む黒人女性が猫を飼っていて、「乳児ベッドにいる幼子がネズミにかじられないように…」と説明していたことが心に響いた [2]。

Jr.は、自らが出した本に、父Robertとともにこうして訪ねた他の場所のことも書いていた。
ミシシッピ・デルタ(貧しい黒人農家が集って村を作っている)や、アパラチアの山間の村である。
政府が「世界一豊かな」と豪語するこの国で、未だに食うものも十分にない人々の実情を知るためである。
雑誌のLifeで、「低開発国の状況」などとして見たことのある生活、そこでの生活の実情であった。
カリフォルニア州のDelanoの貧民らにも会いに、何回も訪れている。






[1] Kennedy兄弟らの父John Kennedyは、ボストンでのアイルランド系移民2世の裕福な商人から、後には大統領によってイギリス大使に抜擢されている。

[2] このような訪問が、地元紙に載らない訳がなく、その結果、アパートの大家は、そこでの駆除、衛生管理に金をかけざるを得なかったと伝える。
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アメリカ合衆国での法案の成立

アメリカ合衆国での立法は、全ての法案(bill)が、議会の上下両院を多数で通過したものを大統領がサインして「成立」となる(合衆国憲法Ⅰ,7(2))[1]。
この「大統領がサインして」の法文の裏として、大統領はいわゆる拒否権(objection)を有する。
bill以外のorder、resolution、vote(まとめて“ORV”という)についても同じである(Ⅰ,7(3))。
これをアメリカでは、「二院制と提出」(bicameral and presentment)と呼んでいる。

上で「上下両院の多数」と記したのをもう少し具体的に言うと、下院は議員数435の過半数の218名の賛成票であり、はっきりしている。
しかも下院は人数が多いから、議決に至るまでの討論も下院のルールで制約されている(無制限ではない)。

ややこしいのは、上院のルールである。
昔から議決に至るまでの討論(debate)の数や長さに制限がない。
理由は2つある(と説明される)。
1つは、議員数が100人と限られていること、更に上院こそは、「世界で最も権威ある立法機関だから…」、というものである(無制限に意見を開陳してよい)。

そこで19世紀半ば以降、2つの慣行(custom)が生れてきた。
filibuster(分捕り) [2]  とcloture(打切り) [3] である。
前者は、反対(少数)派による徹底抗戦のスタイルである [4]。

これまでの最長は、サウスカロライナ選出の議員J. Strom ThurmondによるCivil Rights Act of 1957に反対して行ったfilibuster演説の24時間18分とされている。

こうした上院での無制限の弁舌という慣行に、1917年には早くも是正策が叫ばれてきた。
それがウィルソン大統領の提案により生れてきた打切り(cloture)である。
3分の2の多数決によるとされた。
しかし100人のうちの67人を1つに纏めるのは容易ではないから、それによってfilibusterを打ち切るのは大変で、clotureが考え出された後もfilibusterは実際問題として効き目が十分あった。

ウィルソン大統領がヴェルサイユで主導してできたヴェルサイユ条約の承認の手続では、ヨーロッパでは成立の方向であったが、肝心のアメリカ議会上院でいつまでもfilibusterが続き、正にこのcloture決議が行われたが(1919)、条約そのものの承認はNOとされた。

cloture決議のための3分の2の多数を擁するのは、いかにもきつい。
議事妨害派に有利過ぎると、さりとて上院の聖域とも言うべき自由なdebate権は軽々に否定されるべきではないとして、1975年に上院のルールの改正が行われた。
その結果cloture決議は、5分の3の多数、60票によることとなった。
つまり、反対が予想されるbillを成立させたかったら、実際問題として単純多数の51票ではだめなのである。
反対に41票を集められれば、永久に近くbillに反対し続けられるのである。

その結果、現在でもfilibusterは、かなり有効である。
現に党派的対立の激化を映して、2007年の第110回議会辺りからfilibusterの数が急増している。
最近では、略全ての法案につき、実際問題として60票集められる見込みがないと、成立がおぼつかない状況になってきている。









[1] このように立法権に大統領(行政府)を拘らせたのは、正しく合衆国憲法の基本原理「権力分立」、「相互牽制」のルールに他ならない。

[2] 上記に「分捕り」と訳した“filibuster”は、元は16世紀頃のオランダ語からきていて、英語に直訳するとfree booter、つまり「只で奪い取る人」の様な意味になる。いかにも当時の様子(カリブ海から金銀を積んで帰るスペイン船を狙ったオランダ海賊の活躍を彷彿とさせる言葉である)。

[3] 1930年代に、ルイジアナ選出のある議員は、シェイクスピアからの引用と、お得意料理のレシピを多数盛り込んで、15時間かけて喋りまくり、反対する法案を店晒しにしたという。そこでfilibuster打切りのルールが作られた。

[4] 南部の議員は、いわゆる公民権法案(African-American Civil Rights Acts)が俎上に上ってきた1960年代などに、このfilibusterを多く活用した。

現代イギリス王室

イギリスのハリー(Harry)王子とアメリカの混血のテレビ女優メーガン・マークル(Meghan Markle)との結婚式が、ロンドンの西郊外のWindsor城内教会堂で行なわれた。
その現代の御伽話のような話が、世界を駆け巡った(5月18日)。

NPRも、この世界的に話題をさらった件の取材に一役買っている。
1つの視点は、あの(地球上で陽の沈むことのない)「大英帝国」の変化である。
王位承継順位第6位で、その実現の可能性の乏しい、かつこれまで王室の中でも一番に親しみ易い反面で無軌道ぶりを発揮したこともあった王子であるが、どうやら正道に立ち戻った。
そのイギリス王室のしなやかさなど。

しかし王子の転向ぶり以上に人々の関心をそそったのが、花嫁のメーガン・マークルの方だ。
つまり、アフリカ系黒人(2分の1)、離婚歴のある、テレビ女優、と言う経歴だ。

この組み合わせの話題性の高さは、ハリー王子がこれまでイギリスの上流社会、と言うより貴族社会、ブロンド髪、生粋のイギリス女性(お城の1つや2つ持っている)とだけ交際を奨められて、してきていたことの経歴から、明らかにかけ離れていることに由来する。
反対にメーガンの方は、アメリカ、ロサンゼルス育ちで、母親はアフリカ系のヨガの先生で、ソーシャルワーカーだという。
この組み合わせを受けて、ロンドン市内でもカリブ海などからイギリスへ来たアフリカ系の人々が人口の多数を占めるPeckham区(テムズ河の南)等では、一種のどよめきが起こったという。

NPRは更に伝える。そのPeckham区のある理容店で、Trinidadから来た40歳の女性(市役所勤め)の話しているのが録音されている。
「イギリス王室のこれまでを考えると、この多様化がいかに大変なことか」。
また他の人は、これは「今イギリスに起きつつある、殊にこのロンドン(人口の3分の1が外国生まれで、その40%が黒人などであるという)の変化に王室も少しは歩み寄っている。その印だ…」とも言っている。

イギリス王室の事を多く書いているイギリスの歴史作家Robert LaceyはNPRに言っている。
「王室の立場からすると、こうした多様化は、王室存続に間違いなくプラスする要因になる…彼らは、それでなくても年中、どうやってその人気を維持して行くかに、懸命になっている」 [1]。

1990年代には、チャールズ皇太子他、エリザベス女王の4人の子のうち3人が離婚するという事態があり、女王のイメージを大きく引きずりおろした。
更に1997年、ダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げたこと、また女王が、その葬式へ出席することの遅れたことが多くのイギリス人の不興を買った。

しかしそれから20年がたち、92歳という歴代最高齢で最長期間の君主となる女王は、その安定した気質と勤務態度の良さで人気を取戻してきた。
昨年ロンドン近郊の高層ビルで火災があり、住民70人が死亡した事故では、女王が早速、見舞いに行ったことがテレビで流され、その人気回復に大いに役立った。
対照的にTheressa May首相は、そこで吊るし上げられることを嫌って行かなかった。

女王の孫たちも、女王(王室)の人気向上に一役買っており、ハリー王子などが特に大きく寄与している。
彼は、一時はパーティー・ボーイで、王室内でも困り者だったが。
2005年にはナチの軍服でパーティに出たり、またその後はラスベガスで裸の写真を撮られたりしていた。

今33歳の王子は、それでもイギリス軍の一員として、アフガニスタン戦に参加し大尉に昇進した。
花嫁のマークル一家も、複雑なお家の事情を抱えるようだ。
半分血の繋がった弟で不仲の男が、ハリー王子に「結婚するな!」と手紙を書いたり、父親は逆に「王室に迷惑を掛けたくない」と出席を見送った。
席で花嫁の腕を取って前に導く役は、代って次のイギリス王、チャールズ皇太子が行っている。




[1] NPRは、イギリス王室が必ずしも常に「大人気」と言う訳ではなく、「王室が如何に国民の税金を消費しているか…」みたいな悪口、文句や、中には「時代錯誤(anachronism)だよ」、といった式の文句が、恒常的に聞かれるとしている。

トランプ大統領の当選と連邦の選挙キャンペーン法

トランプ大統領の個人的な弁護士として、その付合いも長くて深い様子のMichael Cohenが気を利かせて、大統領選挙日当日の2,3週間前に当る2016年10月15日にヌード女優に支払った13万ドルの後処理が問題になっている。
しかも連邦の選挙キャンペーン法との絡みで、複雑な法理上の問題も含めて問題になっている [1]。

この13万ドルの出所についてトランプ大統領は、「選挙のキャンペーン資金とは、何の関連もない」とツイートしていたが、新しく大統領の法律顧問になった元ニューヨーク市長などをやったRudy Giuliani氏はFoxテレビに対して「もし(ヌード女優の)話が2016年10月15日に表面化していたら、どうなっていたか!」と答えている。

その通り表面化していたとすると、選挙に大変な影響を与えただけでなく前注の連邦法との絡みでわんさと法律問題が湧いていたであろうという。
つまり届け出義務違反の問題だけでなく、キャンペーンマネーとして、しかも法定限度である2700ドルを遙かに超えていることの問題である。

その法律問題が、今になって盛んに論じられている。
この法的問題をさらに複雑にしたのが、トランプ氏がその後「Cohenには毎月顧問料を払っていただけだ…」と、その支払と顧問料とのつながりを示唆した点である。




[1] その法律が、Federal Election Campaign Act of 1971で、その後1974年など、数回大きな改正を経ている。

[2] 同法により、議会が無効宣言できるのはRegulationsであるので、政府の方も今回のように、“Guidance”と称して、事実上、業界を指導しようとしたが、議会はこのGuidanceも、法律で言うRegulationに含めた形である。

アフリカ大陸でのアメリカ軍


人類発祥の地とされる広大なアフリカ大陸には50か国以上の国、多くの異なる部族が割拠している。
そこでは様々な規模、形での紛争も絶えない。
時たま「大量の集団埋葬の跡が見つかった」、などというニュースが入ってきたりする。

そのアフリカ大陸に対して、暫く前まで自他ともに「世界の警察官」を任じていたアメリカは、どんな方針、政策でいるのか。
NPR(4月28日)は、アメリカのその方面での代表的シンクタンク、外交問題評議会Council on Foreign Relations(CFR)の人に取材して、以下のように伝えている。

「基本的な方針、政策は、『アフリカの問題は、アフリカによって…』だ。
つまり、「地元の能力に安保政策を委ねる」、ということだ(developing the indigenous capacity…)。

さて、広大なアフリカ大陸の地図が頭に入っている人はそんなに多くないだろうが、北の地中海の側から見て、上からリビア、その下(南)に東西で言うと真中から少し西にNigerという国がある
その南隣はナイジェリア(Nigeria)で、西隣がマリ(Mali)である。

その辺りが、2010年代になってガタガタしてきた。
過激派アルカイダ(al-Qaida)と脈絡のあるBoko Haramが事件を起こし始めたのが、2013年である。
他の大陸や日本などの島国の人にとり特に理解が必要なことの1つ。
それが、これらの地では、いわゆる「国境」(border)といったものが大した意味を有しないことだ。
それよりもその辺りが、サハラ砂漠より南の(sub-Sahara)アフリカと北アフリカとの交易、密輸のルートとして、長い歴史を通して人々が頻繁に往来していたという事実の方が大きい。

さて、アメリカのアフリカ大陸に対する方針、政策に戻ると、マチス国防長官(Jim Mattis)は、主としてイスラム国と言えるその地区(上記の3か国)にアメリカ合衆国の軍が1000人以上が入っていると述べている。
その任務について長官は、
「地元のアフリカ諸国の軍と、フランス軍とが主導するISなどの過激派との戦いを側面から助け、大量殺戮などを防ぎ、地域の安定につなげることだ…」と述べている。
アメリカ軍の主要な役割は、諜報活動の分野で、Nigerには既に1か所の『ドローン基地』があるが、更にもう1つを造りつつあるという。

NPRは、更にアフリカの大地でアメリカ軍と何らかの係りのある地として、3つ挙げている。
ウガンダでは2011年の反政府の反乱があり、アメリカ軍が政府側に協力した。
ソマリアでは、1992年に飢餓に絡んで内乱が起きた。
現在“al-Shabab”という反乱軍と戦うのを助けている。
ジブチ(Djibouti)という小さな国には、アメリカ軍のアフリカでの唯一の基地があり、そこではペルシア湾の安定を、寧ろ主目標に置いている。