大統領にとっても一番の問題

アメリカでの一番の問題は、何といっても人種問題である。
NPRも、先ず正面からそう認めている。
「どの大統領も先ず、この問題で困難な気持ちにさせられた」、とする記事を載せている(8月20日)。

そこで言及しているのが、先ず1787年の合衆国の制憲会議での一大悶着である。
奴隷問題を、憲法上どう処理するかで、会議が決裂寸前まで行った。
「大統領を悩ませた…」の文脈では、リンカーンが南北戦争を戦いながらも、かつ例の奴隷解放宣言を出しながらも、何とか合衆国を南北に2分したままに終らせなかったことを採り上げている。

一方、ヴァージニア産のウィルソン大統領は、自らの知人作の、黒人を貶しKKKを賛美する1915年映画“The Birth of a Nation”を、ホワイトハウス内で上映させていたことも伝えている。

ウィルソンと同じく典型的な南部(ミズーリ州)出身のトルーマン大統領が、合衆国軍の内部で一切の人種差別を禁止する大統領令(EO)を1948年の夏という早くに出したことを挙げている。
この大統領令に対する南部州の反発には強烈なものがあった。

その年の秋まで沸騰し続け、11月の選挙では、多くの人が民主党ではなく、「州権党」States’ Rights Partyに投票した。
これに対し、トルーマン氏は反論している。

「私の棺を担いでくれるのは、南部連合の人だが、そんな私も、大戦からミシシッピに帰国した黒人兵らが、トラックから放り出されて殴られるのを見た時、胃がひっくり返った」。

次は、これまた南部に馴染みの深いアイゼンハワー大統領である。
カンザス州とテキサス州が永かった。彼は連合国軍の総司令官ではあったが、当時の軍の中の人口構成から、まだあまり黒人問題を考えなくてもよかったのかもしれないが、人種差別問題にそれほど関心がなかった。

というのは、例の画期的な判決、ブラウン対教育委員会事件に対し、冷たい反応を示していたからだ [1]。
尤も、そこでの最高裁長官ウォレン氏を任命したのも彼だし、またその後に生じてきたアーカンサス州でのリトルロック・セントラル(Little Rock Central)高校への9人の黒人の入学を助けるため第101空挺師団を差し向けたのも彼である [2]。

アイクは、公民権運動が本格化してきた1960年代初めに辞めている。
いわば、すれ違いに終わっている。

その次に出てきたのがケネディ(J.F. Kennedy)であるが、ニューイングランド出身の彼は、何よりも南部民主党のうるさ型に嫌われることを気にしていたから、公民権運動家の方には正面から向き合えなかった。

ケネディが暗殺され、断章された大統領史の中の、副大統領ジョンソン氏。
若い頃から、民主党の中でも黒人のための地味な活動にも係ってきた彼は、ケネディの遺産、作りかけの公民権法を、南部民主党の強い反対を巧くいなしながら、議会下院を通した [3]。

上院に行ってからも彼は、Master of Senateの仇名をとった経歴を生かし、南部民主党の有力者マンスフィールド(Mike Mansfield)議員の協力の下、反対派の執拗な54日間にわたる抵抗を乗り越えて法案を通過させた。

そのジョンソン大統領の黒人差別問題に関する発言として次がある。

「私自身、南部の地に深く根を下した人間だから、黒人差別の問題について良く判っている…もう議論なんか聞きたくない。憲法の求めていることは明確だ…そこで善悪の判断なんかしている必要はない…投票させないことなんか、あってはならないことだ…」。

そう喋っていたものの、彼は公民権法の成立(1964年)に直ぐ続いて、投票権法が1965年に成立するとは予想していなかった。
それを成し遂げたのは、セルマからのマーチ等、公民権運動の力であった。

NPRは、ジョンソン大統領の次は少し飛んで、唯一人の黒人大統領について記している。
彼の有名な2008年のスピーチ「より完全な結合へ!」(A More Perfect Union)である。
彼が敬愛してやまないリンカーンの有名なスピーチの題をもじったものとNPRが言う [4]。

自らの血統ゆえに、どの大統領よりもこの人種問題に悩み、考え、喋っているオバマ大統領。
NPRも、彼の時折の言葉を引用する一方で、どの大統領にとっても、これが、とても頭の痛い問題(excruciating conflict)であることを再述して終っている。

NPRは、オバマ大統領がこのスピーチをした時期について、彼が自らの今後の活躍の足かせになりかねないと、彼のかつての洗礼者牧師と決別した時ではないかとしている [5]。







[1] Brown v. Board of Edu. of Topeka, 347 U.S. 483 (1954)

[2] その夜のテレビで彼は、「最高裁への判決を、その通り実施するという法の執行では、個人的意見は、全く影響を持つべきではない…」と語っていた。

[3] 法案は1963年6月11日、ケネディ大統領が先ず何人かの議員らに説明し、2日後有力議員の中から賛成の反応があった(6月19日法案は議会下院に送られ、先ず司法委員会の下に行った)。ケネディ大統領は、10月に議会の有力者らをホワイトハウスに招きプッシュし、11月、司法委員会から法案は出て、規則委員会へと回付された(その委員長スミス氏は、名うての黒人差別主義者であって、「永久にここから出さない!」と豪語していた)。そんな矢先の11月22日、ケネディ氏の暗殺事件が起きた。11月27日ジョンソン大統領は、そのことを足掛かりに法案の下院通過を促した。

[4] リンカーンは、大統領選挙に出る2年前(1858年)イリノイ州議会の前で、やはり人々の結合を訴えていたが、“House Divided”(分裂したのでは何もできない)のタイトルでスピーチをした。

[5] その教会は、シカゴのサウスサイドにある圧倒的に黒人の多いTrinity United Church of Christで、また牧師はライト(Jeremiah Wright)氏であって、とても攻撃的で議論の多い人であった。オバマ氏は、このライト牧師から離れることを決意する。
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