黒人のための高等教育機関

この2月、NBCニュースは、アメリカでの黒人のための高等教育機関が、「この先どうなって行くのか?」と、深南部ジョージア州アトランタにあるモリス・ブラウン・カレッジに係る具体的な様子を伝えながら、警告ともとれる記事を載せていた。

アメリカには、107(105とも言う)の“HBCU”と呼ばれる黒人のための高等教育機関が現存する。
HBCUとは、Historically Black Colleges and Universitiesの事である。
それらの中には、キング牧師らの有名人を輩出した文字どおり歴史的な価値のある学校も少なくない。

記事のモリス・ブラウン・カレッジは、そうした有名校の1つ、「モーアカレッジ」の北3km余りに建っている。
その学校のキャンパスを巡るNBCの記事は、嘆きと悲しみの言葉で始る。
学長の家は、今や板囲いの状態になる。キャンパス中央の大通り(マーチン・ルーサー・キング通り)の両脇の学生寮も、無残な廃墟に近い。
その近くのフットボール・スタジアムも、最後のホーム試合以来放置されて、文字通腐食が進んでいる。

黒人が創立した数少ないHBCUの1校として、また名の知られた多くのスポーツ選手などがいた大学であるモリス・ブラウン・カレッジ。
その歴史ある「泉の家」(Fountain Hall)には、かつて著名活動家、W.E.B.デュ・ボア(Du Bois)氏も事務所を構えていた [1]。

NBCニュースは、その中庭を四角く囲む校舎の辺を歩きつつ、今の学長とインタビューしている。
この136年の歴史ある大学では、10年ほど前に不祥事があり、大学としての認証評価が与えられなくなった。
これは「命取り」と言ってよい。
そこの全学生が奨学金資格を失ってしまう。
殊に、この手の黒人大学では、奨学金への依存度がとても高い。
この学校でも、9割の学生が何らかの奨学金を得ていた。
このため、2003年に2700名いた学生数は一挙に崩落して、40名となってしまった。

1863年まで奴隷制度が法律上存続していたアメリカでは、黒人のための高等教育機関が存在すること、そのこと自体が、異様、異常であった。
黒人のためにも高等教育機関が設けられるようになったのも、南北戦争の影響が大きい(戦争前に存在したのは、僅か3校であった)。
19世紀後半の世の中を映して、漸く実現された。
なお、戦争終了年1865年に1校(Shaw Uni.)(ノースカロライナ)が出来ている [2]。

リンカーン大統領は、南北戦争中から改革に色々と着手していて、その1つとして、アメリカでの高等教育機関一般のためMorrill Act of 1862の立法を手掛けていた。
同法より28年遅れであるが、その後の2nd Morrill Act of 1890 (Agricultural College Act of 1890)により、合衆国全体としての黒人育成のための教育の体制が作れた。
更にその後20世紀に入って、Higher Education Act of 1965中での“part B institution”により、黒人のための高等教育機関に対しても連邦政府の財政支援を定める法律上の根拠が出来た。
また1890年カーター大統領(Jimmy Carter)による大統領令により、歴史的に黒人用の高等教育機関である大学などに対するホワイトハウスノイニシアティブ(WIHBCU)を、教育省(Dept. of Edu.)内に設けた [3]。
現在は107校が存在する(うち27校は博士課程まで、また57校が修士課程までを有する。

今、その黒人のための高等教育機関の行方が問われるような状態が全般的に生じてきていて、人々は憂慮を深めている。
それはこの10数年で、特に激しくなったアメリカと言う国の国力の衰退を、正に正直に敏感に、反映した事象の1つである。
女子大学に限って言えば、もう既にこの40年にわたり衰退してきている。

以上の事実は、正に憂慮に値する事態と言ってよい。
法律上の奴隷解放から後も、数十年にわたり黒人の手の届くところに無かった高等教育への道。
HBCUは、正にその大道、本道であった [4]。


黒人の月、2月に合わせて、全国から64のHBCUの学長がホワイトハウスに招かれた。
ペンス副大統領とじっくりした会談が予定されていたが、その前に、それを「聞く会」(listening session)と呼んでいた、トランプ大統領が席を倶にした。
その皆の居る目の前で、大統領は1枚の大統領令に署名をして見せた。WIHBCUを、これまでの教育省の所管からホワイトハウスに移すとともに、各省が、「全国のHBCUへの財政支援に努力するように」、との趣旨の大統領令である。

由緒あるHBCUのモーリス・ブラウンではしかし、学長は決してあきらめてはいない。
残った少数の学生らとともに、将来に希望をつないでいる。






[1] W.E.B.デュ・ボアは、1868年マサチューセッツ州で生れ、1963年にアフリカのガーナで亡くなっている。学者、作家、公民権運動家、一時はNAACPのリーダーの一人もしていたが、考えが、概して進歩的過ぎた。黒人の子供のための初の雑誌Brownie’s Bookも出している。

[2] これらの3校とは、Cheyne Uni. Of Penn. (1837)、Lincoln Uni. (Penn)(1854)、およびWilberforce Uni.(Ohio) (1856)である。

[3] トランプ大統領は、2月(アメリカでは2月を「黒人の月」と定めている)に大統領令を発し、このWIHBCUを教育省からホワイトハウスの所管へ移管させた。

[4] HBCUの数107は、アメリカの全カレッジ数の3%にしか過ぎないが、黒人学士の17%、黒人の研究職、技術者らの24%を生み出してきた。
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