LA暴動とメディアの構成

前回記した1992年LA暴動について、それを取材しているメディアを通して、事件のあった25年前と今との間で何か変化が見られるのか。
それも、一番大きな問題、人種問題で。

NPRは正にそこを採り上げている。
2人の黒人女性(2人とも今はレポーターだが、1人は、当時はまだ高校生で、事件をケーブルテレビで見ていた人)にインタビューしている。

NPRのインタビューには、もう1人、当時からレポーターだった黒人女性がいる。
地元の中規模の新聞で働いている。
社会部は、4人で、ヘッドが白人男性で、他に、白人女性のレポーターと、中国系の写真班である。
その本人が言うには、事件現場に駆け付けた時に、「明らかに人種が、大きな働きをした」と。
殆んどが黒人の群衆の中で、「自分は全く身の危険を感じなかったが、そうでない人もいた」と。

「暴動発生後の警察(LAPD)の反応は、むしろスローだった」。
それが一因となって、却って暴動をあれほど拡大させてしまったとも話している。

この「初動の遅さ」について、今はAPの記者をしていて当時高校生だったもう1人の黒人女性は、ミズーリ州のセントルイズ近郊ファーガソンでの事件でも「警察の反応に問題があった」という。

「何しろ中西部と言えば、これまで余り人種で揉めたという話を聞かなかった。
しかし、それは間違いで、表面化していなかっただけで、ずっと問題は存在していた」と。
そして「それゆえに、メディアも吃驚して、初動が遅れたことはある」と。

このLA暴動について掻い摘んで述べると、1991年、当時まだ30歳手前の黒人ロドニー・キングに対するロサンゼルス警察(LAPD)による事件、即ち4人のロサンゼルス警察官によるキング氏に対する殴打・暴行、職権乱用罪等の事件での州裁判所(陪審12人が全員白人だった)による無罪判決が引き金となった。
判決に怒り狂った黒人らを中心とする市民が、このLA暴動を始め、それが3日間続いた。
その間の死者50人超、財産上の損害は10億ドル以上とされる。

事件の発端は、キングによる酔っ払い運転に辿りうる(彼は、父からの遺伝で、大変なアルコール好きであった)。
パトカーに追い掛けられた彼は、最高180キロになるまでの時速で、逃げまくった末に捕まった。
路上でのた打ち回る彼を、LA警察員が警棒で滅多打ちする様の一部始終を、アパートの窓からビデオに撮っていた人がおり、これがケーブルテレビに流されていた。

州裁判所での無罪判決が言い渡されたのは、事件から1年後であった。
そこで騒ぎが起きると、殆んど瀕死の状態まで行って、当時、3人の外科医による5時間の手術を受けたキングも、3日目に荒れ狂う群集の前に出て行った。
何とか収めようと「can we not get along?」と何回も呼び掛けて、漸く暴動も収まった。
公民権侵害事件となるもう1つの連邦裁判所の事件では、更に1年後の1993年に評決が出され、2人は有罪、残る2人が無罪となっている。

LAの地元新聞のレポーターが言う。
「第一線の我々の記事を、セントラル・バレーにいる幹部らが、見て筆を入れるのだが、彼らは白人で、初めから事件を、『そういうものだ』との頭で見ていて、現場にいたレポーターが、適切とは思わないような表現、たとえば狂暴(rampage)などの言葉を勝手に入れてくる…」。

こうした人種観のギャップを要約すると、こうなろうか。
「メディアでは、今日でも中心に白人、それも男性がいて、人種や性別などで、多様性に乏しい…一方、現場の人間には、今では人種なども色々になってきて、記事の内容も、かなり事実に忠実なものになってきている…第一、SNSなどが、リアルタイムで加わってくることによって、影響されてくる…」。
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